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2006年04月05日 up

一番浮いた話

最初は、足袋だった。~between1918-1937~
    創業80周年記念誌より その1

 大正七年(1918)七月、富山県魚津村の主婦たちが米の安売りを求める運動を起こした。それが、わずか二カ月余りで全国規模に広がり、約七0万人の民衆が参加する「米騒動」に発展する。そんな大正デモクラシーを象徴する事件のあった年の九月『小山テント』は創業を開始する。創業者は初代社長小山太平妻のハナと二人の、小さなスタートであった。

 太平は、小山テントの創業開始前『仕立て屋』を営んでいた。本当は板前になりたかったが、骨髄炎を患って左足を手術してから長時間立っている仕事ができなくなった。そのため板前をあきらめ、元来の新しもの好きの気性と手先の器用さから、仕立て屋を選んだのだった。

当時は、ラシャ(ポルトガル語で室町時代末期頃から輸入された)という厚手の毛織物が普及し、オーバーやコート、二重とんびなどの走りでもあった。また、現在のように洋服店で既成服を選んで買うのではなく、すべてがオーダーメイドの時代であり、仕立て屋の需要は高かった。商売になるので当然同業者も多く、場所によっては町内に一、二軒もあるという有様だった。

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 先も述べたように、太平は新しもの好きであった。そしてその好奇心は未来をしっかり見据えるという目も持ち合わせていた。「このままじゃいかん。生き残るにはもっと腕を上げなければ…」。そう思い立ち、知人を頼って単身上京する。一日何着作るといくらもらえる、という初めて体験する厳しい世界で「他の人より、たくさん作るぞ」と腕を磨いた。そう、太平はたいへんな負けず嫌いでもあったのだ。                                                                                                         

腕を上げて新潟に戻っては来たが、やはり商売をもっと拡張するには「人と違うことをしなければ」と再度東京へ出る。そして店先に出ていた『日除けテント』というものを憶えて帰郷した。新潟でぼちぼち受注もあり、取り付けているうちに大手の会社から目をかけられ、仕事をいただくようになった。

                                                       こうして、新潟県で初めてテントシート・日除け等の製造販売を営む会社『小山テント』が誕生したのである。

                                                      テント屋の看板を掲げていたが、東京時代に培った仕立ての技術は健在で、そちらの仕事も平行して続けていた。

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 仕立て屋時代の太平が一番最初にしていた仕事は『芸妓さんの足袋』を作ることだった。冗談好きな太平は

「俺は芸妓さんの足はみんなさわったぞ。そんなこと、敦井さんでも新津さんでもないだろう」

                                                       といつも自慢していた。敦井さんとは新潟きっての事業家で、新津さんとは国内で一番産油量  が高い新潟県の石油王である。その二人でさえ、「さわったことはないだろう」と言うのだから、これはただ事でない。

                                                          港町として栄えてきた新潟の花柳界は全国的にも有名だった。街は柳都と称される程、美しく茂る柳が海風に揺れ、堀にはさらさらと水が流れ、その上を緩やかに弧  を描いた橋がいくつも架かる…。そんな景色に目をやりながら、しなやかに街を歩く美妓たちは、まさに新潟の華であった。しかも、行儀作法が行き届き、芸も達者で、情が深かったため、訪れる客人は皆心を奪われた。

                                                     こんな芸妓さんたちの足に触れ、木型を起こし、足袋を作っていたのだから、当時の男性たちからみれば、さぞ羨ましい仕事だったのではないだろうか。

                                                     太平の自慢はもう一つある。東京の知人に「徒歩や自転車での営業には限りがあるよ」とアドバイスを受け、ハーレー・ダビットソンのオートバイを購入したことだ。当時、そんなハイカラなものに乗っていたのは新潟でも三人しかおらず、「ブ~ン」と柾谷小路あたりを走らす彼等の姿を見て、街の人たちは音のきちがい、音キチだとあだ名した。  そんな営業努力?が実り、次第に事業も広がっていった。一番大きかった仕事は新潟病院(現=新大病院で明治六年に開院)の窓に日除けを取り付けるもの。それは、二年間にわたって約500台設置した。

                                                     大正三年(1914)に始まった第一次世界大戦は日本に軍需景気をもたらしたが、戦後は不景気が続き、さらに昭和四年(1929)にアメリカから始まった世界恐慌が追い討ちをかけていくが、小山テントは順調に成長し、昭和一二年(1937)、日中戦争開戦の年には早川町に工場を新設するまでになった。

                             ・・・つづく♪

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